全カテゴリアーカイブ 5 / 9

コラム

2021/06/06

うちわ(2)

 昨日は、プラスチックうちわという存在の切なさについて説明しました。

 ところで皆さんは、「円い厚紙に親指を通す穴を開けただけ」のうちわをご存じでしょうか。
 日本うちわ協会がこのいわば厚紙うちわを指して、「厚紙を円形に切り抜いたものをうちわと呼称することを一切公認しない」と声明を出したといいますが、私はこれは当然の成り行きだったと考えています。

 そもそもうちわというのは、漢字で「団扇」と書き、団は「円い」という意味です。
 そういう意味では厚紙うちわは円いわけですが、もう一つの「扇」という条件を満たしているとはいえません。
 それは、扇のように、ボディに骨が通っていないから――というわけではありません。
 扇の本質は、つまり扇を扇たらしめているのは、「風を作ることに適した形状・材質である」ということです。

 あれは厚紙なので、手に持って振れば、風は起こります。
 しかし、いざ涼を取ろうと思って使おうとすると、比較的難しいということがわかります。持つ部分が何の補強もされておらず、しかも穴を開けてあるためにむしろ脆弱になっており、ふにゃふにゃしてしまうからです。強く振ることができないのです。
 したがって、うまく風を起こすことができず、至極シンプルに「扇としての条件を満たしていない」と言えます。これでは日本うちわ協会からそっぽを向かれるのも無理もありません。

 それならば、学生さんにお馴染みの下敷きはどうでしょうか。
 あれは厚紙と違い、しっかり持って振ればそれなりの風が起こります。実際うちわ代わりによく使われているのはご存じの通りで、私も夏の学校生活においては、休み時間中おとなしめにずっとフコフコとやっていましたし、何も気にしない人はずっとパコパコとやっていた記憶があります。
 しかし、涼を取れるほどの風を起こせるから扇の一種といえる――というわけではありません。
 繰り返しになりますが、重要なのは形が既存の扇と似ているかではなく、「風を起こすのに適しているか」という点です。その点で下敷きは、全体に硬質なのでしなりが弱く、風を効率的に作ることができません。たくさん風を作ろうと強く振ればとても疲れますし、割れてしまう危険もあります。

 逆説的ですが、扇はその本質を満たすため、持つ部分はしっかりと固く持ちやすく、風を作る平たい部分はよくしなるよう弾力があり、かつやわらかくなっているのです。
 骨に紙を張ったあの形は、蒸し暑い日本でできるだけ涼しく過ごしたい、そういう昔の人の想いが生んだ傑作の一つ――そのように日本うちわ協会の要綱でも語られていますし、私もそう思います。

 一方の厚紙うちわは、穴を開ければしっかり振れない、しかし穴を開けないともはやただの円い厚紙でしかない――そういうジレンマの無限ループに陥っています。そしてそれを解決しているように見えるのが、ときどき目にする、親指の穴があるべき部分にミシン目加工が施されており、穴を開けたければここを自分で開けてね――というスタイルのやつです。
 これは使用者に自由を与えるためのものではありません。プラスチックの柄を付けない新型うちわってどうでしょう? と宣伝するうちわ業者と、穴の代わりにミシン目を入れてクーポン券にすれば経費浮くじゃん、という発注者の都合とがマッチングした結果に過ぎないのです。そしてそれはうちわたちが、扇としての最後のプライドである持ちやすさへの配慮、優しさ、思いやりすら奪い去られた成れの果ての姿――すなわち、うちわが地獄に落ち、もがく姿なのです。

 地獄に落ち、ただの円い厚紙になってしまったうちわたちを、もはや助けてあげることはできません。
 私は私の部屋で、それでも涼しい顔をしているプラスチックうちわを、大丈夫だよ、この世界はこわくないよ、と言い聞かせつつ、抱きしめて共に眠ってあげることしかできないのです。
 切ないじゃありませんか。

コラム

2021/06/05

うちわ

 部屋にうちわを常備しました。

 本来であれば竹や和紙で作られた趣のあるうちわをチョイスするところなのですが、なぜか今の私の部屋には黄色いバックグラウンドに変なさるが描かれたプラスチックうちわしかありません。

 竹や和紙で作られたうちわは、たおやかではんなりとした浴衣女子のイメージです。
 しかしプラスチックうちわにはそんなオーガニックな要素は何一つありません。無表情な無機質女子を彷彿とさせます。 「私が扇ぐ――風が動き始める――あなたに涼しさをもたらす。これは因果律で説明がつく――」といった声が聞こえてくるような気がします。

 そんなプラスチックうちわですが、かつては家電量販店などでノベルティとしてよく配られていました。
 すなわち、大量生産される広告の一種ともいえます。
 しかしうちわの形をして生まれてきた以上、彼女もまたうちわであることには違いないのです。

 ――私は何のために生まれたのだろう?
 家電量販店の宣伝のため? それとも納涼のため?
 私はうちわの姿をした広告? それとも広告を刷られたうちわ?
 どちらも大して変わらない、どちらにしても私はキミに嘘をついてる――。

 自らの存在意義に起因する終わらない苛立ちを今日も心の奥に押し込めて、今日も彼女は半裸の持ち主に上下に振られているのかもしれません。

 いつだったか「最終兵器彼女」という漫画がありました。
 このケースではまさに「販促団扇彼女」ということなのです。
 切ないじゃありませんか。

初心占い師ほたるのトークを追加しました。ネットワーク更新で取得可能です。

ほたるの全財産はそもそもビンところかワンカップ大関の底が埋まるかも非常にあやしいレベルに違いないので、ビンに入れてとっておけないの? という発想はおそらく「みんなお金には困ってるようだし、自分と大して変わらないくらいじゃないかな」と思っているが故のことであり、まさか街を往く人々が少なくとも一時間に800円、多ければ月に何十万とかいうお金を手にしているなんて思いもよらないのかもしれません。しかしそれを知っているマスカレードは「普通の人の全財産はビンでは足りない」というツッコミを入れる、そういう世知辛いトークになっております。

ということなのですが、実のところ「一般的に入手できる範囲の大きめの瓶に、全財産を札で入れる」という条件なら、大抵の人は入りそうです。紙の帯で巻かれている100万円の束の厚みは1センチ、かつ1万円札のサイズは長辺16センチ・短辺7.6センチなので、ビンの入口の窄まりはひとまず無視するとして、底が8センチ四方、高さ16センチくらいの容量の四角いビンの中には最大800万円が入ることになります。昔の大きめのインスタントコーヒーの瓶がちょうど該当するんじゃないでしょうか。ただ、いつかは口から取り出す必要があることや、紙幣の皺や折れ曲がり等による隙間の発生も考えると、現実的には500万円くらいの単位で瓶を用意する運用になるかもしれません。

インスタントコーヒーの瓶ですら800万円入るわけなので、梅酒を漬ける瓶とか、長崎の葬式でお供えする砂糖瓶とか、そういったラージサイズなら全財産入る確率はかなり高いといえます。自分の輝かしい将来を見越してポリタンクとか持ち出してくればもう確実に入るわけですが、灯油を入れないように気をつける必要があるので、表面にデカく「現金」と書いておく必要があるのと、入れ方が乱雑になりがち、さすがに大きすぎるので領域が余りがち、中身が見えないので減ってないか気になってたびたび覗きがち、といった問題がありそうです。みなさんの全財産は瓶の中に入りますか? 日本人の平均貯蓄額が1万円札で入る、ちょうどいい瓶って何なんでしょう? これってトリビアになりませんかね?

なお私については、今のところ死蔵してある分のインスタントコーヒー瓶で十分な見通しです。何個あるだろう。

初心占い師ほたるのトークを追加しました。ネットワーク更新で取得可能です。
キャッシュレスの時代の話と、小銭の女神様の話。

そして、今さら「節分」の判定関数を導入しました。
今年からしばらくの間、「西暦を4で割って1余る年」は節分が2月2日となることを受けての実装です。

そもそもほたるもマスカレードもロクな情報源を持っていない気がし、それなのに賢しくイレギュラーな節分の日付を判定できるというのもなんだかおかしい気がしましたが、逆に言えば生存戦略のためにはいろいろな情報を得ているはずとも言えるので、まあいいかということで実装した次第です。

せっかくなので2090年までの間は正しく節分の日付を取得できるように実装していますが、2090年以降については実装しておらず、2日だろうと3日だろうと常に節分ではないと判定します。今から70年後となるとおそらく人類は滅亡しており、節分自体が存在しないと考えられるためです。70年後に人類が滅亡しているとする根拠は全くありませんが、そもそも人間が2090年まで存続していたとしても節分という文化が存続しているかはかなり不透明です。結局のところは時の流れに身を任せ、今年の節分が終わったら来年の節分の日付を仕込む、というひとりマニュファクチュア的な発想が最も正解に近いのかもしれません。

あるいはいつか人類が地球上から滅亡したら、あらかじめ宇宙空間にエクソダスしていた我々の子孫が巨大な宇宙船の中で「今日は地球の暦で節分ね。よい子のみなさん、ご先祖様を偲んで、恵方巻きをスピカα星の方向を向いて食べるのよ」とか「それでは宇宙怪獣に向かって鉛の豆を投げに行きましょう。よい子のみなさん、総員健闘を祈る」とか言ったりするのかもしれず、まあ地球の上で節分を節分らしく迎えられる時代であるうちは無邪気に豆を投げていようと思います。自分に。

ところで知る人ぞ知る旧2ちゃんねるの「肉の投げ方教えて下さい。」スレッドを何となく見てみたら、これも2月頃に投げようという話だったんですね。もしかしたら節分の豆は大豆、大豆は畑の肉と呼ばれる、というところになぞらえたネタだったのかも、と19年後の今気付いた次第です。そして2月9日・肉の日に1000に到達させてるのがまたにくいですね。肉だけにね。以上です。

 ウェブサイトを再開した暁にはどうしても書いておきたい、といった話題があったはず、しかしそれが何だったのかをとんと思い出せない――という状況のまま二ヶ月が経過していましたが、このたび思い出したので記しておきます。
 Wikipediaの項目、「トイレットペーパーの向き」についてです。

Toilet paper orientation over Toilet paper orientation under

 左が「表向き」、右が「裏向き」です。

 トイレットペーパーというのは、普通に汚い部位を拭く以外にも、床に水滴が落ちたのでちょっと拭くとか、突発的に出現した何かをつまんで屋外に追放するとか、そういうクイックな使い方を要求される紙でもあります。そのため、時と場合に応じた必要量を素早く的確に取り出せないといけません。床とかにそのままドカンと置いてはだめで、ホルダーに装着して使うべし、というのにはそういう必然性があります。

 また、トイレットペーパーは毎日使われるという性質もあって、我々の人生に寄り添い続けてくれる紙でもあります。学校のトイレに置いてある予備のそれがホースの水で溶解してぐちょぐちょになっていたり、報道がある度に開店前のドラッグストアに長蛇の列を成して買い占めを試みたり、拭いた後にチラ見したら自覚のない大量の出血でびっくりさせられたり、最終的には存在すら忘れてそのままトイレから出てきて知らない誰かに無理矢理拭かれたり等々、私たちの人生の悲喜こもごもと共にトイレットペーパーはあり、人間の至らなさ、罪深さ、愚かさ、脆弱さなどを教えてくれます。

 ほとんどの人類が、トイレットペーパーのありがたさを分かち合い、トイレットペーパーと共に生きている。
 なのに、ペーパーホルダーへの補充のしかたひとつで諍いは絶えない。
 まさに宗教論争のような話です。

 もっとも、こと日本においては、この議論はほぼ無意味です。
 というのも、向きも何も、そもそもホルダーに装着されロールの上に覆い被さっているカバーを簡易なカッターとして使い水平に綺麗にカットするという文化が一般的な日本においては、裏向きという概念自体が成立し得ません。
 あるとすれば、それは補充した人の単なるミステイクです。

 そんなわけで向きに関する話は終わりにして、この国においては表向きしか存在しないという前提で話を進めますが、皆さんはペーパーを千切る際、何も考えずに千切っていませんか?
 何も考えてなかった、という人は、今後は以下のようにするとよいでしょう。連続して取り出す場合に便利ですし、後に使う人に対しても親切、そして衛生的です。

1.ホルダーの蓋で、完全にはカットせず、端っこを五ミリ程度残してカットする
2.五ミリ程度つながったまま、十センチくらい引き出す
3.絶妙なひねりと力加減と勢いでもって、完全に千切る
4.汚れた手で触れることなく、次に手に取る部分が自動生成される

 全ての人がこの方法でペーパーを千切れば、次の人はペーパーの切れ目をいちいち探さず、すぐに使えます。
 しかも理論上、前の人の汚れがペーパーに付くこともありません。

 ただしこれだけでは、衛生面としては足りません。最大のポイントは、自分の出したものがバイオハザードの端緒になると強く思い込むことです。他の人が触れたら死ぬんだ、そういうものを私は今出しているんだ――そういう強い思い込みで実行することが大事です。

 何かを参照してこの手法を考案したわけではなく、私がオリジナルで編み出した技だと思っているので、もしこの手法が世界中に広まった場合、トイレにおける衛生の向上に大きく寄与したとしてノーベル賞か何かを受賞して賞金がゲットできるのではないかと今からわくわくしています。
 その一方で、この手法が〝The Numaduki method〟などと命名されたりすると、私の名前が永遠にトイレ関連で残り続けることになってしまいそれはちょっとな……とも思うので、その場合は残念ながら辞退することになりそうです。

 でも名前があることは広めるにおいて重要らしいので、どうしてもというなら命名されてもいいです。