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 実際の生活をしていると、「表面が滑らかで非常に熱い」という物に遭遇することがあります。

 それが本来の仕事であるホットプレートやフライパンはいうまでもないのですが、「コンクリート」「車のボンネット」「自転車のサドル」といったものも、真夏の酷暑時においてはそれに該当します。
 むしろこれらは炎天下においては調理器具に匹敵する尋常でない高温になっており、不用意に触ると火傷する可能性があります。
 そしてそういう「表面が滑らかで非常に熱い」物を見ると、私はふと「ここに生卵を落としたら白身が固まるだろうな……」と思うのです。

 夏場は太陽エネルギーがポピュラーなわけですが、これは長時間点けた後の蛍光灯でも同じです。
 あれは意外と熱いものであり、生卵を落とすともしかして白身が固まるのではないか?という妄想を抱かずにはいられません。
 あんな細い管に卵を落としてどうするんだ? と思われるかもしれません。
 私も冷静な今はそう思います。しかし、いざその状況になると妄想してしまうのです。
 片思いに似ています。

 不思議なことに、「お好み焼きのたね」や「ホットケーキのたね」を落としてみたいと思うことはほとんどありません。
 私の中の私が(それは無理だ、それは固まらない)と言っているからのような気がします。
 (固まっても焦げ目はつかないぞ、おいしくないぞ)と言っている可能性もあります。
 もっとも卵だって蛍光灯に落として焼いてみてもおいしくないに決まっているのでやや矛盾している気もします。

 そんな蛍光灯に対し、最近流行りのLED電灯はあまり発熱しないといいます。
 今後LEDが主流になってしまうと、発熱具合を確かめて熱い熱いと喜んだり、いろいろ焼いてみる妄想をしてみたりといったエンターテイメントがなくなってしまうわけで、寂しいことこの上ありません。
 どうにかならないものでしょうか。

 古代ギリシアには偉い人がたくさんいました。
 古代ギリシアという言葉の響きだけでも偉人がうようよいそうな感じがしますが、その中でも、科学者アルキメデスはとりわけ特別な存在だと言われています。

 特にアルキメデスのエピソードで有名なのは、共同浴場の湯船から水が溢れたのを見て、エウレカ(分かった)!と叫びながら全裸で全力疾走して家まで帰った、というものです。
 今で言うストリーキングであり、後のアルキメデスの原理の発見です。
 取り締まられたりしなかったのでしょうか。

 そう思ったのですが、上記「アルキメデスの原理」の古い版によると、実は古代ギリシアの男性にとって、全裸でランニングを行うのは日常的なことで、ごく普通の行為だったそうです。
 いくら古代とはいっても、全裸で走るものかしら……とも思いますが、古代オリンピックは全裸で行われたというのは史実として有名であり、美しい肉体を持つオリンピアンに憧れる少年たちがいてもおかしくありません。つまり、

少年A「オリンピアンみたいにやっぱり全裸で走りたい……で、でも小さいし……僕だけじゃ無理だ……」
少年B「……。仕方ねえなあー、俺もやるよっ!(脱ぐ)」
少年C「はだかんぼって楽しそう~! じゃあ、ぼくも!(脱ぐ)」
少年D「みんなで風を感じるのも……悪くないね……(脱ぐ)」
少年B「じゃあみんなで、パルテノン神殿まで競争な!」
少年A「みんな……あ、ありがとう!(脱ぐ)」

 という青春ドラマがあり、それ以降は全裸ランニングが少年たちの間でデフォルトになった……というストーリーがあっても違和感はないと思うんです。

 そんな美しく嬉しい光景ですが、しかしたった一つ、矛盾が生じていることにも気づきます。
 それは、「当時のギリシアでは日常的だったという全裸ランニングなのに、アルキメデスがそれをやったことだけは特別に逸話として残された」――という不自然さです。

 この矛盾を解決するには、どちらかが事実ではないとする必要があります。
 しかし裸エウレカはアルキメデス通にとってはポピュラーなエピソードでもあり、こちらを否定するのは気が引けます。
 かといって、はだかんぼランニングも否定できるわけがありません。
 そういうわけなので、ここはもはや「実は男性ではなかった」という結論で手を打つしかない気もします。

 天才少女科学者であり、しかもちょっとエキセントリックな性格だったとなると、クールジャパンでいうところのお約束というか、ストリーキングというよりもむしろサーヴィスカットという属性のものだった可能性もあります。古代ギリシアやりおったなという向きも出てきます。

 そんなアルキメデスさんの最期の言葉は、シラクサの街を占領したローマ兵に向かって発した「わたしの円を踏むな!」なのだそうです。
 全裸で街を駆けるという大胆さ、描いた円を踏まれただけで怒るという繊細さ、敵国の兵士に対峙して垣間見せた凛然たる意志の強さ――古代ギリシアに生きた少女のハートは、現代の少女たちにも瑞々しく受け継がれているように思えてなりません。

コラム

2021/06/06

うちわ(2)

 昨日は、プラスチックうちわという存在の切なさについて説明しました。

 ところで皆さんは、「円い厚紙に親指を通す穴を開けただけ」のうちわをご存じでしょうか。
 日本うちわ協会がこのいわば厚紙うちわを指して、「厚紙を円形に切り抜いたものをうちわと呼称することを一切公認しない」と声明を出したといいますが、私はこれは当然の成り行きだったと考えています。

 そもそもうちわというのは、漢字で「団扇」と書き、団は「円い」という意味です。
 そういう意味では厚紙うちわは円いわけですが、もう一つの「扇」という条件を満たしているとはいえません。
 それは、扇のように、ボディに骨が通っていないから――というわけではありません。
 扇の本質は、つまり扇を扇たらしめているのは、「風を作ることに適した形状・材質である」ということです。

 あれは厚紙なので、手に持って振れば、風は起こります。
 しかし、いざ涼を取ろうと思って使おうとすると、比較的難しいということがわかります。持つ部分が何の補強もされておらず、しかも穴を開けてあるためにむしろ脆弱になっており、ふにゃふにゃしてしまうからです。強く振ることができないのです。
 したがって、うまく風を起こすことができず、至極シンプルに「扇としての条件を満たしていない」と言えます。これでは日本うちわ協会からそっぽを向かれるのも無理もありません。

 それならば、学生さんにお馴染みの下敷きはどうでしょうか。
 あれは厚紙と違い、しっかり持って振ればそれなりの風が起こります。実際うちわ代わりによく使われているのはご存じの通りで、私も夏の学校生活においては、休み時間中おとなしめにずっとフコフコとやっていましたし、何も気にしない人はずっとパコパコとやっていた記憶があります。
 しかし、涼を取れるほどの風を起こせるから扇の一種といえる――というわけではありません。
 繰り返しになりますが、重要なのは形が既存の扇と似ているかではなく、「風を起こすのに適しているか」という点です。その点で下敷きは、全体に硬質なのでしなりが弱く、風を効率的に作ることができません。たくさん風を作ろうと強く振ればとても疲れますし、割れてしまう危険もあります。

 逆説的ですが、扇はその本質を満たすため、持つ部分はしっかりと固く持ちやすく、風を作る平たい部分はよくしなるよう弾力があり、かつやわらかくなっているのです。
 骨に紙を張ったあの形は、蒸し暑い日本でできるだけ涼しく過ごしたい、そういう昔の人の想いが生んだ傑作の一つ――そのように日本うちわ協会の要綱でも語られていますし、私もそう思います。

 一方の厚紙うちわは、穴を開ければしっかり振れない、しかし穴を開けないともはやただの円い厚紙でしかない――そういうジレンマの無限ループに陥っています。そしてそれを解決しているように見えるのが、ときどき目にする、親指の穴があるべき部分にミシン目加工が施されており、穴を開けたければここを自分で開けてね――というスタイルのやつです。
 これは使用者に自由を与えるためのものではありません。プラスチックの柄を付けない新型うちわってどうでしょう? と宣伝するうちわ業者と、穴の代わりにミシン目を入れてクーポン券にすれば経費浮くじゃん、という発注者の都合とがマッチングした結果に過ぎないのです。そしてそれはうちわたちが、扇としての最後のプライドである持ちやすさへの配慮、優しさ、思いやりすら奪い去られた成れの果ての姿――すなわち、うちわが地獄に落ち、もがく姿なのです。

 地獄に落ち、ただの円い厚紙になってしまったうちわたちを、もはや助けてあげることはできません。
 私は私の部屋で、それでも涼しい顔をしているプラスチックうちわを、大丈夫だよ、この世界はこわくないよ、と言い聞かせつつ、抱きしめて共に眠ってあげることしかできないのです。
 切ないじゃありませんか。

コラム

2021/06/05

うちわ

 部屋にうちわを常備しました。

 本来であれば竹や和紙で作られた趣のあるうちわをチョイスするところなのですが、なぜか今の私の部屋には黄色いバックグラウンドに変なさるが描かれたプラスチックうちわしかありません。

 竹や和紙で作られたうちわは、たおやかではんなりとした浴衣女子のイメージです。
 しかしプラスチックうちわにはそんなオーガニックな要素は何一つありません。無表情な無機質女子を彷彿とさせます。 「私が扇ぐ――風が動き始める――あなたに涼しさをもたらす。これは因果律で説明がつく――」といった声が聞こえてくるような気がします。

 そんなプラスチックうちわですが、かつては家電量販店などでノベルティとしてよく配られていました。
 すなわち、大量生産される広告の一種ともいえます。
 しかしうちわの形をして生まれてきた以上、彼女もまたうちわであることには違いないのです。

 ――私は何のために生まれたのだろう?
 家電量販店の宣伝のため? それとも納涼のため?
 私はうちわの姿をした広告? それとも広告を刷られたうちわ?
 どちらも大して変わらない、どちらにしても私はキミに嘘をついてる――。

 自らの存在意義に起因する終わらない苛立ちを今日も心の奥に押し込めて、今日も彼女は半裸の持ち主に上下に振られているのかもしれません。

 いつだったか「最終兵器彼女」という漫画がありました。
 このケースではまさに「販促団扇彼女」ということなのです。
 切ないじゃありませんか。

 ウェブサイトを再開した暁にはどうしても書いておきたい、といった話題があったはず、しかしそれが何だったのかをとんと思い出せない――という状況のまま二ヶ月が経過していましたが、このたび思い出したので記しておきます。
 Wikipediaの項目、「トイレットペーパーの向き」についてです。

Toilet paper orientation over Toilet paper orientation under

 左が「表向き」、右が「裏向き」です。

 トイレットペーパーというのは、普通に汚い部位を拭く以外にも、床に水滴が落ちたのでちょっと拭くとか、突発的に出現した何かをつまんで屋外に追放するとか、そういうクイックな使い方を要求される紙でもあります。そのため、時と場合に応じた必要量を素早く的確に取り出せないといけません。床とかにそのままドカンと置いてはだめで、ホルダーに装着して使うべし、というのにはそういう必然性があります。

 また、トイレットペーパーは毎日使われるという性質もあって、我々の人生に寄り添い続けてくれる紙でもあります。学校のトイレに置いてある予備のそれがホースの水で溶解してぐちょぐちょになっていたり、報道がある度に開店前のドラッグストアに長蛇の列を成して買い占めを試みたり、拭いた後にチラ見したら自覚のない大量の出血でびっくりさせられたり、最終的には存在すら忘れてそのままトイレから出てきて知らない誰かに無理矢理拭かれたり等々、私たちの人生の悲喜こもごもと共にトイレットペーパーはあり、人間の至らなさ、罪深さ、愚かさ、脆弱さなどを教えてくれます。

 ほとんどの人類が、トイレットペーパーのありがたさを分かち合い、トイレットペーパーと共に生きている。
 なのに、ペーパーホルダーへの補充のしかたひとつで諍いは絶えない。
 まさに宗教論争のような話です。

 もっとも、こと日本においては、この議論はほぼ無意味です。
 というのも、向きも何も、そもそもホルダーに装着されロールの上に覆い被さっているカバーを簡易なカッターとして使い水平に綺麗にカットするという文化が一般的な日本においては、裏向きという概念自体が成立し得ません。
 あるとすれば、それは補充した人の単なるミステイクです。

 そんなわけで向きに関する話は終わりにして、この国においては表向きしか存在しないという前提で話を進めますが、皆さんはペーパーを千切る際、何も考えずに千切っていませんか?
 何も考えてなかった、という人は、今後は以下のようにするとよいでしょう。連続して取り出す場合に便利ですし、後に使う人に対しても親切、そして衛生的です。

1.ホルダーの蓋で、完全にはカットせず、端っこを五ミリ程度残してカットする
2.五ミリ程度つながったまま、十センチくらい引き出す
3.絶妙なひねりと力加減と勢いでもって、完全に千切る
4.汚れた手で触れることなく、次に手に取る部分が自動生成される

 全ての人がこの方法でペーパーを千切れば、次の人はペーパーの切れ目をいちいち探さず、すぐに使えます。
 しかも理論上、前の人の汚れがペーパーに付くこともありません。

 ただしこれだけでは、衛生面としては足りません。最大のポイントは、自分の出したものがバイオハザードの端緒になると強く思い込むことです。他の人が触れたら死ぬんだ、そういうものを私は今出しているんだ――そういう強い思い込みで実行することが大事です。

 何かを参照してこの手法を考案したわけではなく、私がオリジナルで編み出した技だと思っているので、もしこの手法が世界中に広まった場合、トイレにおける衛生の向上に大きく寄与したとしてノーベル賞か何かを受賞して賞金がゲットできるのではないかと今からわくわくしています。
 その一方で、この手法が〝The Numaduki method〟などと命名されたりすると、私の名前が永遠にトイレ関連で残り続けることになってしまいそれはちょっとな……とも思うので、その場合は残念ながら辞退することになりそうです。

 でも名前があることは広めるにおいて重要らしいので、どうしてもというなら命名されてもいいです。