アーカイブ - コラム (2 / 2)

 「江藤新平」という、明治時代の傑物がいます。

 おそらくこれを読んでいる人は、「江藤新平」という名前は知っているものの、どういう人物なのかについてはよく知らない、という向きが大半でしょう。
 そんな彼ですが、実はいろいろあり、最期は晒し首に処されてしまいます。

 どういった経緯で晒し首に処されたかについては省略します。
 ごくシンプルにいえば「負けた」ということです。
 いつどこで、何に負けたのか――といったあたりは歴史ロマンを感じつつ、各自お調べください。
 本稿では江藤新平の九十五パーセントくらいを省略し、残り五パーセントの晒し首についてフォーカスします。

 そういうわけなので、まずは実際の首をご覧ください。
 Wikipediaの江藤新平のページの半分あたりまでスクロールすると、右側に「閲覧注意」という赤文字があります。その下のリンクをクリックすると、首のアップ写真が表示されます。
 または、江藤新平で画像検索すれば最初のページに出てきます。晒し首界隈では定番なのかもしれません。

 なお、朝なのであんまり見たくない――といった方のためにどんな写真なのかをまとめると、おおよそ以下です。

1.おそらく事後に整えられたのであろう無造作ヘア
2.異常なまでに眉が整っている
3.口が半開きになっており、芸能人並みに歯並びがいい

 まるで誰それのようだ、といった表現は避けますが、とりあえず「イケメン俳優の寝起き顔」とイメージしてもらえればいいかと思います。

 しかし、そんな貴重な写真である一方、疑義を抱かざるを得ない部分がいくつかあります。
 例えば、首が置かれている部分を見てもらうと、何かが出ている様子がほとんどありません。
 明治時代の人間は首を切っても断面から何も出ないタイプだった、ということはあり得ず、実際には何かが出ていたことは明らかですが、写真ではその雰囲気が全く感じられません。
 そうなると現代で言うところのフォトショ疑惑が持ち上がってきます。そういえばやけに眉が整っているのも、半開きになった口の中から覗く美しい歯も、どことなく人工的な代物に思えてきます。

 とはいえ、それは些細な問題です。
 「フォトショ? あぁ、そのままだとグロいので修正しましたけど何か?」と言われればそれまでです。
 私が特に疑問を抱いているのは、この写真の解説文として、こう書かれている点です。

解説: 晒し首になった江藤新平。処刑直後に販売されていたプロマイド写真。

 「首だけになった時点でもはや江藤新平とはいえないのではないか、それとも脳が人格の全てを司っているとすれば頭部だけでも江藤新平なのか?」という素朴な疑問は横に置くとして、この解説の言わんとしているところは、「処刑直後に写真撮影して、しかもそれをプロマイド写真として販売しちゃった」ということです。しかもこれは誰かが写真屋に依頼したのではなく、写真屋の独断で行われたという話もあるそうです。

 しかしいくらイケメンとはいえ人の死に顔であり、写真屋だって人の子です。
 当時の写真は、撮られる側が三十秒くらいはじっとしていなければなりません。しかも当時、写真は大変貴重で珍しいものであり、野放しにされているフリーダムな人とかが一緒に映り込もうとしてくることが大いに考えられます。
 よって写真撮影者は、撮影が終わるまでは晒し首を直視していなければなりません。これはちょっと酷な話であり、売れるかもわからない晒し首写真を、そんな労を払ってまで撮ろうという鋼メンタルの写真屋がいるものでしょうか。

 さらに言えば、当時の民草がそもそも江藤新平を知っていたのか、という点も気にかかります。「名前はどっかで聞いたけど、晒し首になってるってことはしょうもない悪党なんだろう」くらいにしか見ていなかったのではないでしょうか。だとしたら、そんなものを撮影してプロマイドにすれば売れる、なんて考えたりするものでしょうか。

 そうなると、おそらくこの撮影の裏には、写真屋内部でのちょっと明かせない話があったのではないかと考えるのが自然です。すなわち、

旦那 :おい新入り! 暇なら新しく晒されたホトケさん、腐っちまう前に撮ってきやがれぃ!
    動かねえからヘタクソの練習にぴったりだ!
新入り:へ、へい、合点です!(えぇ、やだなぁ……また嫌がらせだぁ……もう辞めたい……)

 となり、

新入り:おえっ……だ、旦那、撮ってまいりやした……。
旦那 :お、おう……(コイツ、辞めるかと思ったら本当に撮ってきやがったな……)
新入り:い、いかがでしょう?
旦那 :むう……ま、まあまあよく撮れてるじゃねえか(イケメンじゃねえか……売れるぞこれは!)

 となった、ということです。
 首を取られ、首を撮られた――しかしそれが誰かの首の皮一枚を繋げた――そんなドラマがあったなら、きっと彼も心穏やかに三途の川を渡ることができたのではないでしょうか。

 以上です。
 次のNHK大河ドラマの主人公は渋沢栄一ですが、時代が重なっているので、もしかしたら人間の弱さや陰鬱とした部分を象徴するシーンとして、イケメン晒し首シーンが使われるかもしれません。
 イケメンといえばジャニーズであり、大河ドラマに最近よく見るジャニーズといえば風間です。
 なにせ台の上に首だけなので演じるのは相当難しいはずですが、完璧に演じ切れば俳優としての評価は爆上がりし、いずれは大河の主演も夢ではありません。がんばってほしいです。

 前回の続きです。

 学校の入学時期を9月にすることが難しい理由のもうひとつは、単純に「まだ暑い」ということです。
 9月だしそうでもないのでは? と思われるかもしれませんが、2020年は9月初頭にして新潟地方で摂氏40度を記録しており、もはや晩夏とはいえなくなってきています。

 当たり前の話ですが、暑いとやる気が出ず、頑張れません。
 もちろん「やる気が出る季節」などというものは存在しませんが、4月入学の場合、なんとなく頑張っているのをクラスメイトに冷やかされれば「うるせー、最初だけだよ、春だし別にいいだろ」で済み、冷やかした方も「そうか、まぁ俺も最初だけ頑張ってみるか、春だし」となるものです。つまり、気まぐれに出してみた優等生的な照れくさい向上心を、春の時候のせいにできるわけです。

 しかし、9月には何もありません。あるのは夏が終わるという虚無、そして終わらない灼熱だけです。
 なんとなく頑張ってみよう、という気持ちを、何のせいにすることもできません。ただ「暑い中頑張ってるエラい人」になってしまい、これではカッコがつきません。結果、9月の新入生は4月と比べ、頑張る雰囲気に恵まれないことが想像されます。

 また、そもそもの話として、9月に入学式を開くということ自体、大変な危険を伴います。
 前述の通り、運が悪ければ摂氏40度を超える9月の入学式。そんな中、長大な式次第を淡々とこなさせられる学生さんたちにとっては、文字通り、狂気の宴でしかありません。
 そんな絶望感の漂う中、新入生に対して「ひまわりのように強くあれ」とか、「あさがおのようにさわやかな」とか、ましてや造花だのドライフラワーだのそんなフレーズが式辞で並べられようものなら、新入生一同が足下のスリッパを床に叩き付けて校長に一斉に襲いかかっていっても何ら不思議ではありません。

 真面目な話、台風と豪雨が連続で襲いかかってくるような季節をスタートラインにして大丈夫なのか? とかいうようなごく普通な疑問もあるわけですが、とにかく余程他に方策がない、ということでなければ、日本の風土を考えた上では、やはり従来の4月入学がベターではないかと思うのです。

 そういえばこないだまで「学校の入学時期を4月から9月にするといいのでは?」という話があったような気がします。
 おそらく後からこの文書を読むと「9月? なんで9月?」となるに違いありませんが、そのあたりの詳細は割愛します。おそらくいつの時代でも、のっぴきならぬ何かというものはあり、今もそうだ、というだけです。

 率直に言うと、この9月入学の件は、個人的にはあまりよい方針とは思えません。

 入学といえばもちろん入学式、そして入学式といえば校長先生のやたら長い挨拶です。
 すなわち校長先生が式辞を壇上で読み上げ、生徒全体にダメージを与えるというものであり、これは校長先生が生徒から蛇蝎の如く嫌われる要因のひとつになっています。
 そしてその冒頭では、決まって被子植物が引き合いに出されます。要するに生徒の様子を花に例えることで、何らかの効果を期待するというものです。何の効果を期待しているのかは未だ不明ですが、生徒にしかわからないことがあるように、おそらく校長先生にしか分からないこともあります。

 4月であれば、それはもちろん桜です。
 寒い季節に芽を形作り、冷たい空気の綻びと共に一斉に花を咲かせる――そんな様子を見守る人々の眼差しは、新時代を生きる人々を見つめる眼差しとまさに重なるものであり、校長先生も何ら違和感なく「満開の桜がまるで皆さんを祝福するかのように……」などといったフレーズを弄することができるわけです。

 しかし9月初頭といえば、まだまだ夏の範疇です。
 そんな時分に元気に咲いている花といえば、おおよそ〝ひまわり〟ぐらいしか思い浮かびません。
 しかしひまわりというのは基本「暑くても大丈夫な花」というイメージがあり、下手すると新入生に対し「3年間ひたすら耐えろ」「この世は力が全て」というストロングスタイルのメッセージを送ってしまいかねません。
 もう一つ夏の朝のイメージの強い〝あさがお〟もあるにはありますが、あれは元気に咲いているのは朝だけで、昼になると急に寝てしまいます。基本的に学校では昼から先も寝てはならず、やはり式辞での採用は見送る他ありません。

 こんな状況になってしまっては、校長先生が一種の悟りを開いてしまい「夏にはろくな花はないですが、造花やドライフラワーはいつの季節でもきれいです」とか言い始める可能性があります。
 祝賀ムードの中、自分たちが造花やドライフラワーに重ね合わせられるという前代未聞の事態。急激に漂い始めるディストピア感に生徒たちは(一部を除いて)震撼するに違いなく、来賓もハードボイルドな校長の世界観に度肝を抜かれる他ありません。

 もう一つの理由については後日書きます。

 永久機関があったらいいのに、と思うことは誰にでもあります。
 しかしその反面、永久機関は作れない、というのが常識となっています。
 私ぐらいの程度の人間はつい「頭のいい人類が本気出せば絶対に作れるのではないか?」「作れないのはまだ本気出してないだけなのではないか?」などと考えてしまうわけですが、どうやらそうではなく、本当に作れないようなのです。

 永久機関があれば、エネルギー生産方法やエネルギー不足に関する問題には終止符が打たれます。
 それぐらい素晴らしい発明なので、開発者が人類史の1ページに深く刻まれることは間違いありません。あったらあったでいろいろ困ったことも起こりそうですが、まあまあ便利になるに違いありません。経済的理由で1時間だけ煮込んでいた煮込み料理を24時間ぐらい執拗に煮込めるようになるなど、未知の進化が期待されます。

 とここでいきなり真理を述べてしまうのは申し訳ないのですが、つまるところ、絶対に運動をやめない何かを用意すればいいのではないでしょうか。
 「運動をやめない」といえば、相手を殴りながら、お前が泣くまで殴り続けると叫んだキャラクターがいるそうです。
 彼がちょっと本気を出せば、永久機関は完成するのではないでしょうか。すなわち

 1.君がッ 泣くまで 殴るのをやめないッ!
 2.相手は泣けなければ何度でも殴られてしまうという危険がある
 3.しかし逆に言えば泣きさえしなければ永久に殴ってもらえるので効率的に電力を生産できる

 という寸法です。
 人間だと泣いてしまう可能性があるため、とりあえずトーテムポールか何かを人だと言って騙しておけば、きっと永遠に殴り続けてくれるはずです。これを人類が滅亡するまで一家相伝でやり続ければ、半永久的にトーテムポールを殴り続ける永久機関ができると思います。

 小さい永久機関ですが、どうでしょうか。