コラム

2021/06/06

うちわ(2)

 昨日は、プラスチックうちわという存在の切なさについて説明しました。

 ところで皆さんは、「円い厚紙に親指を通す穴を開けただけ」のうちわをご存じでしょうか。
 日本うちわ協会がこのいわば厚紙うちわを指して、「厚紙を円形に切り抜いたものをうちわと呼称することを一切公認しない」と声明を出したといいますが、私はこれは当然の成り行きだったと考えています。

 そもそもうちわというのは、漢字で「団扇」と書き、団は「円い」という意味です。
 そういう意味では厚紙うちわは円いわけですが、もう一つの「扇」という条件を満たしているとはいえません。
 それは、扇のように、ボディに骨が通っていないから――というわけではありません。
 扇の本質は、つまり扇を扇たらしめているのは、「風を作ることに適した形状・材質である」ということです。

 あれは厚紙なので、手に持って振れば、風は起こります。
 しかし、いざ涼を取ろうと思って使おうとすると、比較的難しいということがわかります。持つ部分が何の補強もされておらず、しかも穴を開けてあるためにむしろ脆弱になっており、ふにゃふにゃしてしまうからです。強く振ることができないのです。
 したがって、うまく風を起こすことができず、至極シンプルに「扇としての条件を満たしていない」と言えます。これでは日本うちわ協会からそっぽを向かれるのも無理もありません。

 それならば、学生さんにお馴染みの下敷きはどうでしょうか。
 あれは厚紙と違い、しっかり持って振ればそれなりの風が起こります。実際うちわ代わりによく使われているのはご存じの通りで、私も夏の学校生活においては、休み時間中おとなしめにずっとフコフコとやっていましたし、何も気にしない人はずっとパコパコとやっていた記憶があります。
 しかし、涼を取れるほどの風を起こせるから扇の一種といえる――というわけではありません。
 繰り返しになりますが、重要なのは形が既存の扇と似ているかではなく、「風を起こすのに適しているか」という点です。その点で下敷きは、全体に硬質なのでしなりが弱く、風を効率的に作ることができません。たくさん風を作ろうと強く振ればとても疲れますし、割れてしまう危険もあります。

 逆説的ですが、扇はその本質を満たすため、持つ部分はしっかりと固く持ちやすく、風を作る平たい部分はよくしなるよう弾力があり、かつやわらかくなっているのです。
 骨に紙を張ったあの形は、蒸し暑い日本でできるだけ涼しく過ごしたい、そういう昔の人の想いが生んだ傑作の一つ――そのように日本うちわ協会の要綱でも語られていますし、私もそう思います。

 一方の厚紙うちわは、穴を開ければしっかり振れない、しかし穴を開けないともはやただの円い厚紙でしかない――そういうジレンマの無限ループに陥っています。そしてそれを解決しているように見えるのが、ときどき目にする、親指の穴があるべき部分にミシン目加工が施されており、穴を開けたければここを自分で開けてね――というスタイルのやつです。
 これは使用者に自由を与えるためのものではありません。プラスチックの柄を付けない新型うちわってどうでしょう? と宣伝するうちわ業者と、穴の代わりにミシン目を入れてクーポン券にすれば経費浮くじゃん、という発注者の都合とがマッチングした結果に過ぎないのです。そしてそれはうちわたちが、扇としての最後のプライドである持ちやすさへの配慮、優しさ、思いやりすら奪い去られた成れの果ての姿――すなわち、うちわが地獄に落ち、もがく姿なのです。

 地獄に落ち、ただの円い厚紙になってしまったうちわたちを、もはや助けてあげることはできません。
 私は私の部屋で、それでも涼しい顔をしているプラスチックうちわを、大丈夫だよ、この世界はこわくないよ、と言い聞かせつつ、抱きしめて共に眠ってあげることしかできないのです。
 切ないじゃありませんか。