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再追記 2022/06/13

テキストコンテンツのみ外部ブログの利用を考えていました(実際1ヶ月程度使ってみました)が、使い勝手や内容の方針について大変思い悩んでしまったため、ブログの利用はキャンセルします。
ではどうするのか――といった予告はできるだけしたいのですが、それをしてまた諸事情でキャンセル……、といったことを繰り返したりするとさすがによくないので、ひとまず何か動きがあるまでお待ちください。

というわけなので、以下の文章は過去の内容になります。

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  • コア sino.dll を 「文」から「YAYA」に変更(絵文字(😀など)が出力可能になっています)
  • タグアーカイブでページネーションを実装
  • {entrynext} {entryprev}scope モディファイアの値に tag を追加(タグを複数設定している場合は、一番最初に指定したタグが対象となります)
  • 各タグにおける相対パスの出力処理がおかしかったのを修正
  • ファイル分割によるカテゴリー分け機能を廃止(カテゴライズは「タグ」機能のみに変更)
  • その他の内部的変更

ダウンロード

ファイル記事分割についての仕様変更

今までは、ファイルを分割することで「カテゴリー」として扱っていました。
しかし preview 7以降は、デフォルトでは記事ファイルの分割は特に意味を持ちません。
記事のカテゴライズは、「タグ」のみで行うことになります。

なお、ファイルのヘッダーに以下の行を記述することで、そのファイル内の投稿全てにタグを付与することができます。

TAG: 日常

ファイルのヘッダーにこう書くことで、ファイル内の投稿に全て日常タグが付与されます。

文からYAYAへの変更に際して

前述の通り、YAYAに変更したきっかけは「文では絵文字を扱うのが困難だったから」です。
しかし、絵文字は数値文字参照にすればいい(🌻なら🌻)だけであり、そんなに大きい問題ではありません。

文には大変思い入れがあります。しかしその思い入れを優先するために、今後制限事項が徐々に増えていったり、クオリティ低下に直結する作業量の増大が発生するのは作り手にとっても受け手にとっても望ましくはない、という判断に至りました。

なぜ文に思い入れがあるのかというと、私にとって大事な存在だからです。理由は二つ。
一つは、空想を形にするという、人生で一番楽しいことを実現してくれるから。
もう一つは、私に現実に生きるためのプログラミングの力をくれたからです。

文と出会ったのは高校の頃で、それ以前からもJavaScriptなどでコードを書くことはしていましたが、文は当時の私にとってはとても本格的なプログラミング言語でした。C言語のように複雑なことができるのに、規模が抑えられておりシンプルで、プログラミング初学者だった私にとっては大変扱いやすい言語でした。

ライブラリとしての構造もまたシンプルで、読み込む側のアプリケーションを作ることも、読み込む拡張モジュールを作ることも、特別に難しくはありません。このことは、私がコンパイル型というタイプの異なる言語を(断続的ではありますが)学び続けるきっかけになってくれました。

これ以上個人的事情を書くのはやめておこうと思いますが(書きたくなったら外部のブログ等に書くことにします)、つまるところ、文と出会えたおかげで、今の私があります。

文作者のumeiciさんに、心から感謝申し上げます。
伺かゴーストの方は文の使用を継続しますので、そういう意味でも、これからもお世話になります。

また、文を互換性の高いかたちで発展させてくれている、YAYA開発チームの皆様にも感謝申し上げます。

初心占い師ほたるの祝日判定の問題修正と、マスカレードのメニューに「今日は何の日?」を追加しました。
ネットワーク更新で取得可能です。

なお、今回はトークの追加はありませんが、祝日が正常に判定されるようになったことで、今まで見られなかったトークが見られるようになるかもしれません。
なお、昨日(スポーツの日)に関するトークは特にありません。すみません。

せっかくのオリンピック開会式の日だったので何かそれっぽいトークを書ければ、とも思っていたのですが、ほたるとオリンピックがどうも結びつかないというか、「街が賑やかだねぇ」とか「日本人じゃない人がたくさん街を歩いてるねぇ」とか言わせるのもご存じの通り事実に反しているのでおかしいし、「せっかくだけど私たちとはあんまり関係ないね」「来年からコミケの会場が戻ってくる……」とか言わせるのもオリンピックが好きな人の気分を下げてしまうようで嫌だし……とかいろいろ考えているうちに時間がなくなってしまいました。まあオリンピックに限らず、あんまりサブカル系ではない現実のイベントをネタとして使うのは(よほど面白くなるという確証がない限りは)やめとこう、という感じです。

開会式は生放送で見ました。
イベントお祭り大好きでシャイな純日本人なので、20時からほぼ24時まで、4時間弱くらいぶっ続けで見ました。感想はネタバレになるのであえて書きませんが、少なくとも「見ることで精神的に怪我する可能性は低い」と判定しますので、実際に再放送やネット配信等で見ていただくのがいいだろうなあと思います。
ただ、視聴のヒントとして書いておくと、選手入場が始まってから終わるまでの間に特別に何かがある(会場に明確な変化があるとか、何かの映像が挿入されるとか)わけではないので、選手入場は別にいいかな……という人はガッツリ飛ばしても大丈夫だと思います。
あと、個人的には橋本聖子会長のスピーチは心に訴えかけてくるものがありました。政治家の話は聞くに値しない……と思う人もいるでしょうが、政治家というよりもアスリートとしての立場からのスピーチだったかと思います。氏に何の思い入れのない私でもほう、と思ったので、アスリートとして活躍していた頃を知っている人にはさらに響くのではと想像します。選手入場よりもさらにすっ飛ばされがちなシーンだとは思いますが、もし心に余裕があれば。

 古代ギリシアには偉い人がたくさんいました。
 古代ギリシアという言葉の響きだけでも偉人がうようよいそうな感じがしますが、その中でも、科学者アルキメデスはとりわけ特別な存在だと言われています。

 特にアルキメデスのエピソードで有名なのは、共同浴場の湯船から水が溢れたのを見て、エウレカ(分かった)!と叫びながら全裸で全力疾走して家まで帰った、というものです。
 今で言うストリーキングであり、後のアルキメデスの原理の発見です。
 取り締まられたりしなかったのでしょうか。

 そう思ったのですが、上記「アルキメデスの原理」の古い版によると、実は古代ギリシアの男性にとって、全裸でランニングを行うのは日常的なことで、ごく普通の行為だったそうです。
 いくら古代とはいっても、全裸で走るものかしら……とも思いますが、古代オリンピックは全裸で行われたというのは史実として有名であり、美しい肉体を持つオリンピアンに憧れる少年たちがいてもおかしくありません。つまり、

少年A「オリンピアンみたいにやっぱり全裸で走りたい……で、でも小さいし……僕だけじゃ無理だ……」
少年B「……。仕方ねえなあー、俺もやるよっ!(脱ぐ)」
少年C「はだかんぼって楽しそう~! じゃあ、ぼくも!(脱ぐ)」
少年D「みんなで風を感じるのも……悪くないね……(脱ぐ)」
少年B「じゃあみんなで、パルテノン神殿まで競争な!」
少年A「みんな……あ、ありがとう!(脱ぐ)」

 という青春ドラマがあり、それ以降は全裸ランニングが少年たちの間でデフォルトになった……というストーリーがあっても違和感はないと思うんです。

 そんな美しく嬉しい光景ですが、しかしたった一つ、矛盾が生じていることにも気づきます。
 それは、「当時のギリシアでは日常的だったという全裸ランニングなのに、アルキメデスがそれをやったことだけは特別に逸話として残された」――という不自然さです。

 この矛盾を解決するには、どちらかが事実ではないとする必要があります。
 しかし裸エウレカはアルキメデス通にとってはポピュラーなエピソードでもあり、こちらを否定するのは気が引けます。
 かといって、はだかんぼランニングも否定できるわけがありません。
 そういうわけなので、ここはもはや「実は男性ではなかった」という結論で手を打つしかない気もします。

 天才少女科学者であり、しかもちょっとエキセントリックな性格だったとなると、クールジャパンでいうところのお約束というか、ストリーキングというよりもむしろサーヴィスカットという属性のものだった可能性もあります。古代ギリシアやりおったなという向きも出てきます。

 そんなアルキメデスさんの最期の言葉は、シラクサの街を占領したローマ兵に向かって発した「わたしの円を踏むな!」なのだそうです。
 全裸で街を駆けるという大胆さ、描いた円を踏まれただけで怒るという繊細さ、敵国の兵士に対峙して垣間見せた凛然たる意志の強さ――古代ギリシアに生きた少女のハートは、現代の少女たちにも瑞々しく受け継がれているように思えてなりません。

初心占い師ほたるのトークを追加しました。ネットワーク更新で取得可能です。
寝ていてもうちわが動くガールの話。

伺かとか、あるいは繰り返し見る可能性の高い会話形式のコンテンツの場合、最初に見た時は「?」て思うけど、また見たら「あぁ……そういう面白さだったのかこれ」ってなるようなトークが色んな意味でいいトークなのかもしれない、と思っているところがあり、そういう意味では今回のトークはそういうトークかもしれません。別に何か深みのあるトーク、というのではなく単純に少しわかりにくいトークです、ということなのですが、まあ私ももう三十代も後半になってしまっているので、若に時代特有のあまり意味もないこだわりというものもありません。もしかしたらハートマークも初めて使ったかもしれない。

さて、三十にして立つ、四十にして惑わず、という言葉があります。前述の通り私は三十代をあと数年で終わるというフェーズを迎えているのでもうかなり立っているはずなのですが、それでもなお言葉の意味の思い違いをしていることが少なからずあったりします。なので、今回も念のため「寝ていてもうちわの動く親心」という川柳の解釈を調べてみたのですが、案の定、思っていたのと違う解釈がありました。
おそらく一般的には「暑い中、赤ちゃんが涼しく眠れるようにうちわであおいでいる」と読まれると思うのですが、渡辺信一郎著「江戸川柳」(岩波書店)を引用するコラムによると、乳を飲んで寝込んだ赤子に添い寝している母親もウトウトとし、それでも赤子にたかる虫を寄せ付けないようにと、手にした団扇だけは扇ぎ揺らせているという光景で、赤子に対する母親の気遣いの様子が描かれています。それとともに、赤子に風を送り涼しくしているとも考えられます。とのこと。
上記がこのコラム筆者の独自見解なのか、書籍にそう書かれていたのかは定かではありませんが、普通は何らかの知見がなければ「うちわであおぐ=虫を寄せ付けないため」とは解釈しないと思うので、書籍の中でそう紹介されているんだろうなぁと想像します。なるほどその機能があったか。
しかしその一方で、赤ちゃんが冷えすぎない程度の風圧を発生させたところで虫は退散してくれるもんだろうか? 向かい風に耐えて赤ちゃんにたかってくるのではないだろうか? とも思うわけですが、夏の虫と言えば蚊、あいつら見た目にもそんなに頑丈ではなさそうなので、意外と風を送るだけでもいけるのかもしれません。
あるいは江戸時代の川柳なので、当時の衛生状況を考えると蚊よりも蝿のほうがウザがられていた可能性もあり、であればあいつらちょっと気配をちらつかせただけでも飛んでいってしまうので、やっぱりうちわは蚊というより蝿シフトなのかもしれません。
いやあ、文芸作品は時代背景を踏まえて読むのが重要なんですね。ちょっぴり立ちました。

コラムの方にもうちわについて思うところを書いていますので、よろしければお読みください。
プラスチックうちわが如何に切ない存在なのかを説明する前半
厚紙うちわがなぜ日本うちわ協会に公認されないのかについてを考察する後半